2012/01
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人13]

ヴォーリズ記念館

 現在も近江兄弟社は近江八幡市を基盤として、次のような事業展開している。
(株)近江兄弟社/医薬品製造、外食産業
(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所
(財)近江兄弟社
 ヴォーリズ記念館/湖声社(出版・伝道)/ヴォーリズ記念病院(一般診療・長期療養)/ヴォーリズ老健センター(老人保険施設)/近江兄弟社学園 幼稚園、小学校・中学校・高等学校

 奈良県立大学長の神木哲男氏は次のように述べている。
 ――ヴォーリズは牧師と云う立場でなく社会活動を通じてキリスト教精神と信仰生活の普及に努めた。それだから日本人、外国人を問わず多くの支援者を得ることができた。布教伝道に必要な経済的基盤を確立するため、広い分野にわたる事業展開をした。建築設計、貿易、製薬、学校、病院、図書館などである。近江八幡という小さな町の経済的効果を高め、雇用の創出をしている。ヴォーリズが始めた事業と精神が現在も続いている。――
建築家、キリスト教伝道者
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ

近江商人発祥の地
 琵琶湖畔の古い町、近江八幡。その昔、豊臣秀次が八幡城を築いた城下町、そして近江商人発祥の地として知られ、古い町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、訪れる観光客も多い。近江商人は城下町の楽市楽座から発展したと云われ、碁盤の目に整備された町並みや八幡堀は散策にも向いている。
 江戸から京に通ずる街道は、東海道が鈴鹿から草津へ、中山道が関ヶ原から近江路を草津へ行くが、彦根や近江八幡は通らない。彦根・近江八幡を通る京街道は将軍上洛の道であり参勤交代も通れない。その昔の朝鮮通信使はこの道を通ったので、近江八幡の郷土資料館には朝鮮通信使の資料が展示してある。
 近江八幡のもう一つの特徴は、メンソレータムで知られる近江兄弟社とその関連する学校や病院などがあることである。近江兄弟社は1905年(明治38年)にアメリカから25歳の青年が来日したことから始まる。

青い眼の近江商人
 この古い街にウイリアム・メレル・ヴォーリズが、八幡商業学校の英語教師として赴任した。そして2年後にはキリスト教伝道活動を理由に教師を解任されてしまう。しかし、日本に神の国建設の理想に燃えてやってきたヴォーリズ青年は、布教・伝道に必要な費用は建築家として活動し、メンソレータムの販売・製造により支弁して、日本に踏みとどまり伝道活動を続けた。
 ヴォーリズはアメリカ・カンザス州の小さな町レブンワースで1880年に生まれ、コロラド州デンバーに移り、コロラド大学で建築学を学んだ。
 在学中にカナダのトロントで開かれたYMCA大会に出席して海外伝道活動に参加することを決意し、大学での履修科目も変更する。卒業後はYMCAで仕事をしながら海外伝道の希望を待ち、日本にやってきた。多くの宣教師たちが各会派から伝道の為に派遣されるのと異なり、ヴォーリズは社会活動を通じてキリスト教精神と信仰生活の普及に努めた。
 さて、八幡商業学校の教師を辞めさせられたヴォーリズは、京都YMCA内に建築事務所を開設して活動を始める。多くの支援者に支えられて近江八幡で伝道活動を続けるのだが、そこには偶然とは思えないようなセレンディピティ(serendipity=偶然から幸運を導く能力)を感じる。
 トロントの大会で彼と同じく海外伝道を志したベーツ青年は同じ1905年に関西学院に来ていた。彼の支援で関西学院のキャンパス設計を依頼される。(現在もヴォーリズ設計の時計塔、神学部、文学部、経済学部、中央講堂残っている。)ベーツはその後、関西学院の第4代院長となる。京都ではミッションスクールの同志社大学が支援した。(現在もヴォーリズ設計の校舎が残っている。)
 もう一つ大きな支援者は米国メンソレータムの創業者アルバート・ハイド氏である。ヴォーリズは日本国内でのメンソレータム販売権を得て、好調な販売を始め、更には製造のノウハウを得てメンソレータムの製造も始めている。このハイド氏は後で分かるのだが、ヴォーリズと同じレブンワースの出身であった。
 横浜で伝道活動を続けていたヘボンとも交流があり、明治学院のチャペルを設計する。後にこの教会で、日本人女性との結婚式を挙げることになる。

絡み合った機縁の糸
 近江八幡ではヴォーリズの活動に共鳴した若者たちが近江兄弟社に集まってきた。キリスト教伝道誌「湖畔の声」を創刊し、近江療養院を開設、キリスト教慈善財団も設立した。
 大阪の大同生命社長広岡恵三氏から邸宅設計を依頼された時、広岡氏の実妹一柳満喜子さんが通訳として助けてくれた。満喜子さんは米国に留学して9年間滞在し、母親と共に洗礼を受けたクリスチャンである。これが機縁となって1919年に結婚した。ヴォーリズ39歳、満喜子さん35才である。
 一柳満喜子さんの父一柳末徳氏は播磨小野藩の最後の城主で、維新後は福沢諭吉の慶応大学に学び、ヘボンやフルベッキにも学び貴族院議員となる。先祖を辿ると、初代は豊臣秀吉の家臣美濃大垣城主一柳直末で、豊臣秀次が近江八幡に築城したときに築城補佐として近江八幡に在住していた。初代から350年後に先祖の地に戻ってきたことになる。
 1922年、一柳満喜子夫人は清友園幼稚園を開設、これが発展して現在の近江兄弟社学園となる。ヴォーリズは1941年に日本国籍を取得した。日本名一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)である。メレル・ヴォーリズは社交的で陽気なカンザス人と云われているが、米国から来て終世日本に留まったのが名前の由来のようだ。太平洋戦争中は苦労したが、1954年藍綬褒章受章、1958年近江八幡市名誉市民、1961年黄綬褒章受章し、夫人は文部省の教育功労者、藍綬褒章を受章している。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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